院長紹介

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お口は命の入り口です。

『歯を守る事。』
それは大切な方との会話、
食べる喜び、かけがえのない健康…
すなわち『あなたの人生を守る事』です。

takuya sasaki
理事長・歯学博士 佐々木琢哉 TakuyaSasaki
  • No.1 宣言
    臨床、学術、歯科医師育成、患者さん経の貢献No.1
  • 趣  味
    バスケ鑑賞(NBA)、
    実際にバスケをすることも好きです
    ・食べる事
  • 誕生日/血液型
    9月25日/O型
  • 好きな言葉
    親孝行
  • 略 歴

    • 平成5年
      仙台第一高等学校卒業
    • 平成11年
      岩手医科大学歯学部卒業
      東北大学歯学部においてラットを用いた生体親和性金属についての研究で学位取得
    • 平成11年
      山形県立中央病院勤務
    • 平成19年
      タクヤデンタルクリニック開業
    • 平成27年
      T’sデンタルオフィス開業
  • 所属学会・研修会修了実績(一部)

    日本口腔外科学会所属/エッジワイズ矯正12回コース/SJCD東京レギュラーコース/SJCD東京マスターコース/ダイレクトボンディングセミナー/床矯正研究会/勝史塾/カルシテックインプラントセミナー/米国式歯内治療セミナー/吸着義歯ハンズオン/セレックセミナー/ハーバード大学短期留学研修(2013、2016 修了)

私の半生と、
歯科医師になった理由

もっと佐々木琢哉を知って頂くために生い立ちをご紹介いたします。

歯科医師を志す
キッカケとなった、父の言葉

私は、宮城県仙台市で歯科医院を開業していた父と、山形県山形市出身の母の元に三男として生まれました。

小さな頃から身体は同い年の子よりも大きかったのですが、引っ込み思案で大人しい子供だったそうです。
実は、幼少期の記憶はあまりないのですが、両親のことを大好きだったことは覚えています。

ただ、父はいつも仕事で忙しく、ほとんど遊んでもらった記憶がありません。
それでも、歯科医師として一生懸命働く父の姿は、いつも格好いいなと思いながら眺めていたことを覚えています。

また、仕事が終わると、父は良く仕事の話をしてくれました。

「今日来た患者さんがね、こんな風に患者さんが喜んでくれたんだよ」
「歯医者って人を助ける仕事なんだ。お前も将来、そんな仕事につけるといいね」
「痛くて来た人が、笑って帰っていくんだよ。痛くなくなった。これで、酒飲めるって。」

そんな話を父から聞くために、いつも帰ってくると父親のそばにへばりついていました。
父が話してくれる仕事の話は、楽しくて、格好良くて、まさに幼い私の憧れの存在でした。

今振り返ると、この時の父親の話が歯科医師を志すキッカケとなったのですが、
それだけでなく仕事への考え方や、人へ貢献することの素晴らしさを教えてくれていたのです。

私の今の歯科医師としての考えや患者様への思いは、この父親からの教えが土台になっています。
父は既に他界しておりますが、父のことは歯科医師としても人間としても心から尊敬し、感謝しています。

バスケットボールにのめり込み、
覚醒した少年時代

小学4年生の時にバスケットボールと出会ったことで人生が大きく変わり始めました。
それまでは大人しい少年でしたが、一気に活発な少年へ変貌したのです。

とにかくバスケの練習が楽しくて仕方がなく、毎日毎日ボールを持って出かけていました。
練習のしすぎで骨折したことまでありました(この頃に、努力する習慣や喜びが養われた気がします。)

身体が大きかったことが幸いし、実力もどんどん伸びました。
所属していた強豪チームではキャプテンを任され、東北大会で優勝することができました。
さらに、同じく強豪校だった中学でもキャプテンを任され、県選抜にも選ばれるなど本当に充実したバスケ生活を送っていました。

挫折を味わい、
授業の時間を
河原で過ごした高校時代

中学で活躍することができたため、公立の進学校でありながらバスケの強豪校だった高校へ鳴り物入りで入学することとなりました。
正直、自信を深めていたので「高校でもすぐに活躍してスターになってやる!」と意気込んでいました。

しかし、マンガのように「中学から上がってすぐに大活躍!」とは行きません。高校に入ったら、自分のプレーが全く通用しなかったのです。

小学校、中学時代と周囲からチヤホヤされていた私は、初めての挫折でした。
期待されて入部したのにも関わらず活躍できない自分が悔しくて、恥ずかしくて仕方がなかったのです。

「皆から期待外れと思われているんじゃないか」
「自分は実は才能がないのではないか」
「もう二度と活躍できないのではないか…」
「チームに自分は必要ないのではないか」

そんなことを毎日考え、バスケも学校も辞めてしまおうかと何度も考えました。
今考えるとなんと甘ったれた勘違い高校生なのかと思いますが、当時の私は真剣に悩んでいました。

しかも、悩んでいることを口実として、学校の授業には出ずに、河原に行って時間をつぶすような毎日が続いた時期もありました。

1年生の間は、本当に辛い日々でした。しかし、2年生に入り後輩が入ったことで気がついたのです。

「自分がふがいないと、後輩まで成長しなくなる」
「見本にならなくてはいけないのに、俺は何をやっているんだ…?」
「実力がないなら、精一杯練習するしかないじゃないか」

それからは、それまで以上に練習に打ち込みました。

そして、その後はなんとか壁を乗り越え、キャプテンに任命されるなど非常に充実した日々を過ごせました。
3年間の中ではインターハイ出場など様々な経験ができたのは、そのご褒美だったのかもしれません。

父の言葉が甦り、
憧れだった
歯科医師を目指すことに

バスケに燃えた3年間が終わり、進路を考える時期のことです。
家族を含め、周囲は東京の大学にバスケットで進学を勧めてくれていました。

しかし、ふと幼い頃に憧れた父親の姿、言葉が蘇ったのです。

「やっぱり歯科医師になりたい!」

それからは、バスケで身につけた忍耐力と根性で、自分でも驚くほど勉強をしました。
バスケばかりやっていたので成績は悪かったのですが、なんとか志望していた岩手医科大学歯学部に現役で合格することができたのです。

院長として、患者様への想い

無事に国家試験も受かり、大学卒業後は東北大学の口腔外科に入局し学位も取得することができました。
また、山形県立中央病院へ配属された後、現在の地へ開業をしました。

山形の地へ開業したのは、自分の母の実家がある土地であり、
修行中の時代にお世話になった縁のあるこの地へ貢献したいという想いからでした。

自分の医院を持つという夢の1つが叶った時には、憧れの父に近づけたような感覚があり、感激しました。

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私の次の夢は、当院の関わる人が幸せになる歯科医院作りです。
そして、山形県で一番笑顔が溢れ、人を幸せにできる歯科医院を創ることです。

治療技術や設備の面はもちろんですが、それだけでなく、患者様の心に寄り添い、心からの信頼関係を互いに築き、健康面でも心の面でも貢献することで、皆様の人生の豊かさへ貢献することができる歯科医院となりたいと思っています。
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また、当院のメンバーにも「ティーズデンタルオフィスで働くことができて良かった!」と心から言える場でありたいのです。
そしてメンバーが親となったとき、私の父親が語ってくれたように自分の子供達へ『仕事の楽しさ、素晴らしさ』『人へ貢献することの喜び』『自分の仕事への誇り』を語れるようになってほしいのです。

私は、そんな医院を目指し、全員で成長し続けます。
チーム力を発揮して、医院全体で患者様へ貢献する歯科医院へ成長します。
こんな想いを持った私、そして熱いメンバーがいる
ティーズデンタルオフィスへぜひご来院下さい。
一緒に幸せになりましょう。
口腔外科出身の理事長が直接アドバイス
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